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名古屋高等裁判所金沢支部 昭和49年(う)69号 判決

被告人 吉田弘巳

主文

原判決を破棄する。

本件を福井地方裁判所に差し戻す。

理由

本件控訴の趣意は、検察官北側勝作成の控訴趣意書に記載されているとおりであるから、これを引用するが、その要旨は、「原判決は起訴状記載の公訴事実につき、証拠上その外形的事実は概ねこれを認めうるとしながら、被告人は右公訴事実記載の交通事故により頭部を強打したため脳に損傷をうけ、事故当日及び事故後二〇日間の記憶を全く喪失しており、右記憶の回復は今後もほとんど絶望的であると認められるとしたうえ、前記の情況からみて、被告人は公訴事実について防禦権を行使することがほとんど不可能であると思料されるから、このような被告人に対し審理をすすめ、実体判決をなすことは、被告人の裁判をうける権利を侵害する結果を招くとし、このような場合、既に起訴され、被告人たる地位に置かれた者をその地位から解放するためには公訴を棄却するよりほかに方法がないとして被告人に対して本件公訴を棄却する旨の判決を言渡した。しかし乍ら現行法上公訴棄却の裁判をなしうる場合は、刑事訴訟法三三八条、三三九条所定の場合のみであり、本件の場合、被告人が原判決にいう健忘の状態にあるとしても被告人はその後心身ともに健全な状態に回復し、自ら、又は弁護人と協力し、被告人としての重要な利害を理解し、それに従つて相当な防禦活動をなす訴訟能力を、十分に備えるに至つていることは、証拠上明白であるから、公訴提起が適法であり、かつ訴訟条件に何ら欠けるところのない本件においては、被告人の供述以外の関係各証拠により、公訴事実の存否と被告人の刑責の有無につき、審理判決をなすべきものであつて、これに対し刑事訴訟法三三八条の適用乃至は準用の余地なきものであるに拘らず、被告人に対し公訴棄却の判決をした原判決は、右法条の解釈適用を誤つたものである。」というにある。

所論に鑑み記録を精査して勘案するに、原判決が所論指摘の理由により、公訴棄却の判決を言渡したことは、記録上明らかであり、証拠によれば、被告人が本件発生当日における自己の一切の経験につき原判決説示の如き健忘(逆行性健忘)の状態にあることもまた、これを肯認しうるところである。しかるところ、被告人は、少くとも本件事故に関し、捜査当局の取調べをうけた昭和四六年一二月二七日当時までには、心身の故障も回復し、健忘の点を除けばほぼ正常な状態に戻つていたものであることも記録上明らかであるから、公訴提起以降、被告人自身において、又は弁護人と協力するなどし、被告人としての重要な利害を理解したうえ、訴訟当事者としての相当な防禦活動をなすことは、充分にこれを期待しうると考えられる。本件事犯の罪質、態様、或いは既に取調済みの関係各証拠等からすれば、本件の場合被告人に原判決説示の如き健忘症状があるからといつて、その一事をもつて、直ちに被告人に対し防禦権の行使を期待できず、本件公訴事実について、実体の裁判をすることは、被告人の裁判を受ける権利を侵害し正義に反する結果を招くことになるとは到底考えられない。

しかして現行法上公訴棄却の裁判をなしうるのは、刑事訴訟法三三八条、三三九条所定の場合に限られるものであることは所謂指摘のとおりであり、本件の場合、事柄の性質上、右法条の適用乃至準用の余地なき場合であることも、多言を要しないところであるといわねばならず、もとより被告人の裁判をうける権利或いは訴訟法における手続的正義の実現といつた見地からみても、前説示のとおり本件は実体的判決をなすにつき何ら妨げなき場合であると認められる。従つてこれと異り、刑事訴訟法の規定を離れ被告人の利益のためとして本件公訴を棄却した原判決は公訴棄却に関する各法条ことに同法三三八条の解釈適用を誤つたものであり破棄を免れないものというべく、論旨は理由がある。

よつて本件控訴は理由があるから、刑事訴訟法三九七条一項、三八〇条により原判決を破棄し、同法三九八条により本件を福井地方裁判所へ差し戻すこととし、主文のとおり判決する。

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